戦後まもなく、創業者の竹中恭平・鈴子夫妻は、親戚を頼って、岐阜の地にやってきました。
食糧難の時代、どうせ商売をするなら、私が好きなパンがいい、(鈴子・談)と、パン屋に決め
ました。
たった一度教わって、4kwの中古の窯で素人がパン屋になりました。
当時は配給パン(60年も前のこと)の時代で、まさに物々交換をしていたそうです。
砂糖は手に入らなくて、サッカリン(今では見ることもない)に膨らし粉(パン酵母も入手しにく
かったようです)で捏ねていたそうです。それもミキサーなんて気の利いた機械はなくて、盥
(たらい)で混ぜていたそうです。窯でプーと膨らむので、風船パンと呼んでいたそうです。
岐阜駅前の凱旋道路(もちろん今では言いません)に面して店がありました。金町(コガネマチと呼ぶ)
というリッチな町名からコガネパンとなずけました。安直ですが、良い名前ですよね。
それから、パンは自由販売になって、苦労したようです。それでも、おいしいものをつくる志は変わらず
、世間に認められて成長をしています。ジャムやバタークリームを自家製で作り、それ自体も販売して
いました。
忘れてならないのは、その当時、韓国から来ていた、金善斗(日本名・金林善次郎)氏が我社を成長さ
せた人であることです。
現在、東京にある(社)日本パン技術研究所(当時は大阪にあり、通称・パン学校)で学び、当社のレベルをグーンと上げてくれました。
その後、韓国の人が、日本のパン学校で学ぶきっかけとなったと聞いています。
韓国に帰ってからは、釜山の三立食品㈱の技術常務になられ、韓国の製パン業界の発展に尽くされたと聞いています。